和太鼓奏者・御木裕樹 コラム

-其の四- 和太鼓との出会い

自分は1973年9月22日、東京都品川区南品川で生まれた。
東海道五十三次・第一の宿「東海道・品川宿」の南品川宿という事もあり、 1年を通して南品川は太鼓を使う祭礼・神事・イベントが多く、生活の中で年中太鼓の音が聞こえてくる。


毎年5月末〜6月上旬には南品川の総鎮守、荏原神社・天王祭(通称・かっぱ祭り/荏原神社・例大祭)が盛大に行われる。
ちなみに自分が生まれたのは、この荏原神社の目の前にあった病院である。
この祭りのメイン行事である「御神面神輿海中渡御」は、1751年(宝暦元年)6月8日、品川の猟師町(現在:洌崎町会(寄木神社)付近)の海域で大量の魚と一緒に御神面が入り、 その後「荏原神社」に奉納されて以来、豊漁と豊作を祈願して行われてきた。
この事から、この御神面の上がった海域の洲を「天王洲」と呼ぶようになり、現在も「天王洲」として地名が残っている。
(現在この海域は埋め立てられ、「天王洲アイル」として高層ビルが立ち並び、東京の新名所として近代的な町の姿になっている。)

この為、全13町会が町内渡御を行う各神輿においても全て「御神面」が取り付けられ、さらに1尺4寸前後の桶胴太鼓を神輿に取り付けて大拍子(品川拍子)を奏で、太鼓と笛の調子に合わせて神輿を担ぐという品川の伝統的な神輿 (祭り)である。


「御神面神輿海中渡御」の神輿は昭和2年まで「荏原神社宮神輿」が使われてきたが、現在は元猟師町である洌崎町会(寄木神社)の中神輿で行っている。
天王祭の最終日(日曜日)の午前中に、近年はお台場・海浜公園(東京都港区台場)の浜まで神輿を船で運び、海で荒々しく担ぐ。
自分が使用している太鼓や台などの楽器は、全て 「葛{本卯之助商店」製であるが、この海中渡御を行っている中神輿も「葛{本卯之助商店」製である。
「葛{本卯之助商店」は、文久元年に元々が「太鼓店」として創業した東京・浅草の一流太鼓メーカーで、宮内庁をはじめ明治神宮など全国の神社・仏閣にも太鼓を納めているが、神輿製作にも力を 入れており、品川の神輿はもちろん全国各地に納め、浅草・三社祭りの100基以上ある神輿のほとんどを納めている。
他、山車・祭礼具・神社・神具・各種邦楽器などを扱っており、江戸時代〜現在まで太鼓を作り続けて150年以上の老舗だ。


品川と聞くと、テレビドラマや映画などに出てくるような都会的なのイメージが強いかもしれない。
確かに、IT企業が入った高層ビルも沢山あるし、アミューズメントパークなどもオープンしている。
品川駅(港区)には新幹線が停まるようになったし、羽田空港も近いためビジネスマンや外国人の姿も多い。
しかし 自分が生まれた南品川は、現在でも少し路地を入れば木造平屋の家屋が並び、井戸水で洗濯をしているおばあちゃんもいれば、井戸の横で「井戸端会議」もしてる。
焚き火もしてるし、ステテコに腹巻姿で歩いているおじさんもいるし、昭和の風景をそのまんま残している地域も多い。
神社、寺、史跡などが数多く有り、東海道五十三次・一の宿、品川宿の東海道も「旧・東海道」として、そのまま道を残しているなど、大変に情緒溢れる下町の情景が残っているのだ。
映画館や水族館で遊ぶのもいいが、品川では「歴史めぐり」や「東海道・七福神めぐり」などで遊んでみるのもいい。

余談になるが、「お清め」と称してお祭りで使う太鼓(楽器)に、水や日本酒をかけるのを見かけるのだが、これだけは絶対にしてはいけない。
なぜなら、太鼓そのものもご神体であるからだ。
それに何よりも楽器であって、樹木と牛の皮で出来ている太鼓にとって水分と乾燥は天敵だからだ。
水分をかければ、一発で楽器がダメになる可能性もある。
町会のお金で買っているからといって粗末に扱ってはいけないし、間違った伝統を子供達に教えてはいけない。
仮に太鼓がタダの道具だったとしても、その楽器を大切に長く扱う事は大事な事である。
まして太鼓は、叩けば叩くほど良い音になるものだ。
何年も叩きまくって、やっと皮が馴染んできて、やっと響くようになる。
今は壊れれば何でもすぐに買い換える時代だが、何でも新品が一番良いわけではなく、太鼓の場合は「破れる寸前が一番いい音」とまで言われている。

また、神輿の上に乗る行為は絶対にしてはならない。
神様が祀られた“神様”の乗り物である「御神輿の渡御」というのは神聖なる行事であり、“神事”であるからだ。
決して格好のいい事ではなく、神様の頭を踏みつけている行為だ。
酒を飲んで暴れたり、騒いだり、神輿に乗ったり、太鼓に酒をかけたり、祭り本来の趣旨から外れた行動は、日本の伝統を汚すのみならず、神をも冒涜する行為である。
さらに神輿は、建物の2階や歩道橋など「上から見てはいけない」。「神輿を上から見下ろしてはいけない」。
神様を上から見る事は、許される行為ではない。
数十年前までは、女性が神輿を担ぐ事も触ることも許されなかったほどだ。
現在でも全国の祭礼行事によっては、同じような掟と伝統がある。
担ぎ手は禊をして体を清めてから神事に臨むべきであり、酔っ払いが飲んで騒いで目立つ行事ではない。

野外コンサートやイベントなどで和太鼓がセットしてあると、通りすがりに気軽に手でポンポンと太鼓を叩く人がいるが、これもご法度である。
奏者本人であっても、メンテナンスやチューニングの時以外は、素手で打面をベタベタ触るの事はしない。

お祭りは初夏(5月下旬〜6月上旬)だが、 まだ暖かくならないうちから各町会では大拍子の練習が始まり、品川に夏の訪れを感じさせてくれる。
夏は盆踊りが各所で開催され、これまた盆太鼓の出番である。 秋には御会式で団扇太鼓が聞こえてくる。
近年は秋に「品川宿場まつり」という品川宿にちなんだ祭りも開催しており、この祭りに合わせて南品川・天妙国寺・境内にて「和太鼓 御木裕樹 投げ銭コンサート」を1995年〜2000年までの6年連続で行った。
また、 地元の獅子舞もあるし、お囃子も聞こえてくる。
とにかく年間を通して太鼓を観れる聞けるチャンスが沢山あるのだ。
2歳の時に盆踊り会場の櫓(やぐら)の上の太鼓が「カッコイイな〜!」と思った。
「自分も櫓の上で太鼓が叩きたいな〜」というのが、まず太鼓との出会いだ。
御神輿の太鼓(大拍子)もやりたくなって、太鼓の音がする練習場所に近づいていくと地元のおじさんやお兄さんが、やさしく教えてくれた。

さらに自分のおばあちゃんがよく通っていた「平和島温泉」(現在:平和島クアハウス)に毎日のように連れて行ってもらい、演芸で行う盆踊りのコーナーで「東京音頭」、「花笠音頭」、「 炭坑節」、「八木節」といった曲を叩きまくった。
もともと太鼓を叩いていたおじさんが、いつもニコニコしながらバチを貸してくれて叩かせてくれるのだ。
いつの間にか平和島温泉の名物の芸人となってしまい、常連のおじいちゃん・おばあちゃん達がいつも応援してくれた。

2歳から叩き始めた神輿の大拍子の太鼓。そして盆踊りでの盆太鼓。
これが自分の原点であり、品川という地に生まれてなかったら今の職業にはついていないかもしれない。
この2歳〜3歳の時の出来事は鮮明に覚えているし、今でも自分の支えになっている。
毎日連れて行ってくれたおばあちゃん。
応援してくれた方々。
そして太鼓を叩かせて下さり、教えて下さった方々・・・。
思い出すだけでも涙が溢れてくる・・・。

そんなやさしいおばあちゃんも1997年に75歳で亡くなってしまったが、葬儀の一番最後に自分の和太鼓演奏で送り出した。
「送り太鼓」である。
太鼓は、人間が誕生した出産祝いで演奏する「出生祝い太鼓」もあれば、死に直面した葬儀で演奏する「別れ太鼓」もある。
結婚式などのおめでたい事では「祝い太鼓」も叩くし、太鼓を新調すれば「叩き初め」を行うし、使用して折れたバチは捨てずに「バチ供養」(火葬)をする。


人が“生”まれた時も“死”ぬ時も、両方演奏できる楽器は“和太鼓”くらいしかないだろう。
人間が極限の状態でも、心を沈めたり、逆に血を躍らせたりする作用が太鼓にはある。
太鼓は、それほど神秘的な楽器だという事だ。


太鼓を始めた「原点があり、今がある」という事を忘れてはいけない。
おばあちゃんがいなければ、現在「プロ和太鼓奏者」という太鼓を演奏する事を職業にはしていないかもしれない。

全てに感謝感謝の連続である。


御木裕樹(和太鼓奏者)


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