和太鼓奏者・御木裕樹 コラム

-其の六- 太鼓は音楽・芸術・唄

夏の夜を彩る、花火大会。
多彩な色と音で観衆を楽しませてくれる。
何千発・何万発と打ち上げる花火大会も、一発一発の花火の結晶であり、それが一くくりのスターマイン(連発仕掛け花火)などを構成し、観るものに感動を与えてくれる。
火薬が爆発している事を忘れるくらいのストーリーがあったり、演目として、芸術として、そして鮮やかなショーとして楽しませてくれる。
しかし、この花火一発一発を作成するのにどれだけの時間と労力を使っている事だろう。
色や形を開発し、計算し、火薬を詰め、何回も実験を行ってきた事だろう。
花火師による、 この“裏方作業”こそが、本番当日の“出来栄え”を左右するのだ。
いつも思う事だが、コンサート(本番・演奏など)は「花火」と同じようなものだ。


花火師は、まだ暑くならない季節から作業に入ってるわけで、ものによっては本番の何年も前から仕事(準備)に入っている。
経験、技術、テクニックを駆使して、 細かいところまでこだわって、長い時間をかけて一生懸命に創り上げる作業工程は重要な仕事であり、人の目に触れない地道な作業が、あの感動的な本番を作り出すのだ。
時間をかけて制作した一発一発の花火は、花火大会当日にほんの一瞬だけ輝いて消えてゆく。
しかし、その一瞬の輝きは人々の頭と心に刻み込まれ、かけがえの無い感動を与えてくれる。
そして、その経験によって得たものを更に今後の作品にも生かしていくわけだ。
本番は1〜2時間で終ってしまうが、仕事のほとんどは花火製作、すなわち「準備」だ。


演奏活動に関しても、全く同じ事が言える。
光り輝く本番舞台(コンサート)は一瞬の事である。
体調管理や技術向上はもちろん、感情などのメンタル面も本番に向けてコントロールしなければならない。
たった数小節や数打を何日もかけて創り上げたり、何ヶ月もかけて創ったものがほんの数秒の芸術なのだ。
作曲、編曲、アレンジして、共演者とのリハーサルも重ね、演出も練り上げ、照明・音響・舞台監督との打合せも同時進行し、舞台効果なども決めていく。
本番舞台で光り輝く事ができるのも、それまでの“裏方作業”の積み重ねである。
また、本番当日も舞台の裏方として働く「スタッフ陣営」のおかげでもある。
言い方を変えれば、舞台に立ち光を浴びる演奏者は花火のようなもので、その花火を仕込んで素晴らしい作品に創り上げているのはスタッフの力に他ならない。
演奏者の技術や力が必要な事は言うまでもないが、自分だけの力では無い。


また、本番の鮮やかさ、華やかさと、普段の地道な活動(仕事)とのギャップが大きい所も花火とコンサートは似ている。
光り輝く舞台に憧れてプロの演奏家を目指す為に上京して修行に入る者は多いが、まずこのギャップに付いていけずに、挫折する(辞める)場合が多い。
「憧れ」だけでこの世界に入れば、まず“都落ち”となるだろう。
なぜなら、 本番舞台の1〜2時間という一瞬の為に、日頃から人の目に触れない所でコツコツと地道な仕事をする事がほとんどだからだ。
音楽活動で言えば、仕込み、バラシ、積み下ろし、搬入、搬出、梱包、チューニング、セッティング、運搬、リハーサル、作曲、編曲、打合せ、楽器のメンテ、などなど日頃の仕事はいくらで もある。
他にも、演奏指導、団体プロデュース、新しい楽器の開発、衣装合わせ、取材、インタビュー、写真撮影、講演会、それにこうしたHPへの記事掲載もある。
「華やか」な世界が好きで憧れるのであれば、決して業界には入らずに、いつまでもお客様としてコンサートを楽しんでいたほうがいい。
いつでも光り輝く本番舞台(花火なら、打ち上げる“本番そのもの”)だけを見れるわけだから。


コンサート本番は、花火大会本番と同様に「完成した料理」とも似ている。
食材選びから始まり、調理方法、味付けにより、完成する料理が変わる。
食べるのはほんの一瞬の事だが、それまでが大変に時間のかかる作業だ。


以前、ある花火大会の会場で、真夏の昼時の炎天下に打ち上げ現場で仕込み作業をしている花火師・煙火業者の方と、たまたま話をする事ができた。
話をしたのはベテランの職人であったが、少し話しただけでも、その生き様とこだわりを垣間見る事ができたし、「やっぱりコンサートは花火と同じだ」と思った。
花火大会本番までまだ6時間近くもある打ち上げ現場で、全員汗だくでの仕込み作業だが、 夜になれば何万人、何十万人と集まる空間(客席)は、まだ誰もいない。
このような地道な仕事の積み重ねが、本番の感動を創り上げているのだ。
花火師と音楽家は共に芸術家であり、花火と音楽活動はソックリの世界である。


それに、花火打ち上げのテクニックや演出、演目の組み立てなども演奏とよく似ている。
例えば 1時間なら1時間、ず〜っと「乱れ打ちスターマイン」の連続だとしたら、はたしてそれは美しい花火だろうか。
それに、何よりも楽しいだろうか?感動する演目となるだろうか?
最初はその迫力に感動するだろうが、5分もすれば慣れてしまうのが人間なのだ。
結局、迫力が迫力と感じられないようになってしまい、結果的に結局テンションがダウンしてしまうだろう。
まあ、飽きてしまうのがオチだ。
なぜだろう・・・。
いくら辛いものが好きでも、辛いご飯に、辛いおかず、辛いサラダに、辛い味噌汁、辛い飲み物に、辛いデザートを食べたのでは、結局“辛さが引き立たなくなる”ものだ。
緩急や強弱、演目の組み立てや作品の順番などにこだわらないと、結局は表現力に欠け、芸術性も欠けてしまう事になる。


これまで全国の様々な花火大会を観ているが、同じ2千発、同じ1万発であっても、プログラム(演目)の組み立て方で作品が全然変わる。
感動する演目となるか、ただ坦々と打ち上げているだけに感じてしまうのか。
それは、花火の大きさ、種類、色合い、組み合わせ、そして何よりもスターマイン1回分の演出にかかっている。
一発一発の花火の質が大切な事はもちろんだが、その素材をどう組み合わせるのかが、お客様の拍手の大きさにも関わってくる。
演奏も全く同じだ。
同じ楽器、同じバチ、同じ人間が演奏したとしても、この“仕込み”(考え方や作品の作り方など)方法によって、演目が全く異なるものになってしまう。


1時間に13万発を打ち上げる、世界最大の花火・「教祖祭 PL花火芸術」(大阪府・富田林市)を毎年スケジュールが合えば観に行っている。
2008年からは、数え方を玉数から打ち上げ数に変更したため、公式の発数表現は2万発に変更されたが、従来通りの13万発だ。
数字上はあえて“激減”させた形となったが主催者は、「花火の数ばかりを求めて見物客が押し寄せ、万が一の事故につながっては元も子もない」と、コメントしたそうだ。何と素晴らしい事だろうか。
やはり、本物は違う。本物は本物という事だ。
この世界一の花火だが、毎年日本中から一流の「煙火業者」が集まり、花火師300人体制で本番に挑むとの事。
ラストのスペシャルスターマインでは、一気に8000発を打ち上げ、大阪の空が昼間のように明るくなる。
とにかく 打ち上げ発数も物凄いが、それよりも何と言っても「芸術性」が素晴らしい。
「間」(マ)や「組合せ」などの演目が素晴らしいのだ。
1時間の花火大会の、どこを切り取ってみたとしても、これまで見た事が無いような演目ばかりで、感動する。
ただ「発数が多いから凄い」という花火大会ではない。
色の組み合わせ、打ち上げる高さと場所の計算、タイミングと前後の花火とのバランス。
繊細であり、上品であり、攻撃的であり、セクシーだ。
正に空を舞台とした芸術作品であり、短時間の演目にしてもプログラムの作り方が憎すぎるぐらい凄すぎる。
ジャンルを問わず、これを観ずして何を“勉強”と言うのか。
レンタルビデオ、図書館、美術館、映画、コンサートなどでは味わえない空間と音・色彩の芸術がそこにはある。
“日本の美”であり、日本国特有の間と風流だ。
煙火業者(花火師)は確実に芸術家である。

我々は、この素晴らしい花火と同様に普段の生活でも「間」というのを巧みに利用して生きている。
ずっと運動をし続けては体を壊してしまうし、ずっと寝ていても具合が悪くなるだろう。
会話や食事、歩く時や着替え、トイレ、風呂、呼吸・・・。
いつでもどこでも「間」を上手い事とって、緩急や強弱も自然に使い分けて生きているのだ。

さて ここで演奏の話だが、和太鼓は他の楽器に比べて爆音とも言えるほど大きな音量が出るし、演奏アクションも大きい。
ただでさえ目立つ存在であるし、もし演奏において全く気を使えない太鼓奏者が演奏したとしたら音楽・演目・芸術を壊すだろう。
和太鼓演奏によくありがちな(本当によくある)、1時間なら1時間ぶっ通しで力一杯バカスカバカスカ、ドカドカドカドカ、やかましく叩きまくるのは、結局は迫力に感じられずに雑音にしかならなくなる。
ずーっと、怒鳴り声を上げて歌い叫びまくってるのと同じだ。
叩いた後の生ビールが美味いのかもしれないが、自己満足の世界で終わりである。

大昔から和太鼓は信号・合図、意思の伝達や神社・仏閣などで神事に使用されてきたが、このような奏法と、舞台芸術として魅せる、聞かせる太鼓とは全く別のものである。
もちろん神楽や獅子舞、奉納の太鼓など、伝統的な奏法や演目を舞台で披露する事はあるとは思うが、ここで言う「舞台芸術としての和太鼓演奏」とは太鼓のみで構成された和太鼓チーム、グループ、太鼓会、保存会 、太鼓団体、太鼓集団を始め、和太鼓奏者などのソリストや、他の楽器とのセッションや楽曲演奏、演目・パフォーマンスを見せる事が目的のジャンルの事である。
舞台で演奏を披露する以上、和太鼓演奏は芸能・芸術なわけで、リズムがある以上音楽であり、打楽器である。
そして、和太鼓の魅力はソロ(アドリブ)演奏にあるとも言える。
決まったルール(楽曲によっても変わるが、その曲のテーマやテンポなどの約束事)に則りながら、自由に演奏するソロ(アドリブ)演奏は和太鼓のみならず、音楽家の原点であるし最高に楽しい時間である。
普段の生活における言動も、言ってみれば全て決まり事の中でのアドリブ (ソロ)みたいなものだ。
だからこそ性格や個性が出るわけだ。
予め自分の人生の譜面を書いて、その譜面通り生活してるのではない。
予期せぬ事があれば、それはまた対処しながら前に進んでいくのは、人生も楽曲も太鼓も他の音楽もみんな同じだ。
自分は、和太鼓演奏を唄だと認識している。
感性、センス、個性を音として表現し、自分の唄を唄うのだ。
ささやくように・・・。
吠えるように・・・。
悲しく、激しく、寂しく、優しく、勇ましく・・・。


和太鼓とは、我が国「日本国」の伝統楽器であり、世界に誇る“究極の打楽器”だと思っている。
アスリートのような体力も時には必要とされるし、芸術家・美術家のような表現力も必要だ。
打楽器奏者としてのリズム感も、もちろん要求されるし、様々なテクニックも身に付けなければいけない。
猛獣のような破壊的な演奏も可能だが、花のように綺麗に華麗に演奏する事も可能だ。
太鼓が本来持っている、素晴らしい音色(オンショク)、音色(ネイロ)に芯のある音、リズム感、体力、表現力、アクション力、パフォーマンス力、どれ一つ欠けてはいけない。
太鼓を叩く職人とは、表現する芸人であり、太鼓演奏とは、音楽・芸術・そして唄である。


御木裕樹(和太鼓奏者)


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